ジョセフ・スミスの後継者

混乱のモルモン教会

1844年6月27日、モルモン教の預言者ジョセフ・スミスが暗殺され、イリノイ州ナウヴー(当時の本拠地)は大混乱に陥りました。モルモン側だけでなく、ジョセフを殺害した暴徒側も混乱しました。彼らは怒りに駆られてジョセフらを殺害したものの、所詮は烏合の衆。「この機に乗じてナウヴーを攻撃し、モルモンを追放しよう」という強硬派と、「ナウヴー軍(モルモン教徒の民兵)の兵力は侮れない。ここは動かずにいよう」という穏健派に分かれました。奇跡的に無傷で生き延びた使徒のウィラード・リチャーズと、満身創痍のジョン・テイラーは、ただちにナウヴーへメッセージを送り、「決して報復行動に出てはならない。平静を保つように」と信者たちを必死に宥めました。こうして生まれた小康状態の中、信者たちは状況を打開してくれる指導者を待っているのが現状でした。

ジョセフの意中の後継者は誰だったのか

モルモン教はお得意の後付け理論で「神権の聖任順で既に次の預言者は定まっており、他の後継候補者は反逆者のようなものだ」と言いますが、それは正しくありません。ジョセフ・スミスは、自身の後継者に明確な指名も選出の方法も定めていませんでした。なによりもジョセフの死は早すぎました。そのため後継問題の実体は混乱を極めたものでした。

もっとも、ジョセフ・スミスの意中の人は長男ジョセフ・スミス三世であったというのが定説です。しかし、ジョセフ死亡時に三世はまだ11歳でした。混乱の時期を背負うことは不可能でした。ジョセフ・スミスの後継を狙って、以下の面々が様々な思惑で、あるいは真面目な考えで登場しました。主な者たちは以下の通りです。

シドニー・リグドン大管長会第一副管長: 組織上の最上位生存者。
ブリガム・ヤング十二使徒会会長: 大管長補佐の職は大管長の死で失効していると主張。リグドンには資格がなく、十二使徒の集団指導体制を主張。
ジョセフ・スミス三世: ジョセフ自身が幼い息子に祝福を与えていたという証言があり、ジョセフの妻エマやスミス家はこちらを支持。しかし若年であり、自ら後継を名乗らず。
ジェームズ・ストレンジ: ジョセフからの「任命の手紙」を受け取ったと主張し、多くの信者を惹きつける。

リグドンの不人気とヤングの「大返し」

教祖ジョセフ・スミスと実質的ナンバー2のハイラム・スミスが一緒に斃れたため、ナウヴーには取りまとめるべきリーダーが不在となりました。ヤングと後継を争うことになるシドニー・リグドンはペンシルベニアにいました(この頃の彼はジョセフに嫌われ、距離を置かれていました)。
一方のブリガム・ヤングはピッツバーグで伝道中で、その他多くの使徒も合衆国東部で伝道中でした。

8月3日、ペンシルベニアにいたシドニー・リグドンがまずナウヴーに入りました。彼は信者に「預言者の代わりになれる者は誰もいない。しかし、教会には『保護者(Guardian)』が必要であり、自分がその任に就くべきだ」と説いて回りました。リグドンは大変な能弁で、ジョセフの片腕として一時は大いに活躍しましたが、晩年のジョセフとの関係は冷え切っていました。ジョセフが密かに多妻結婚を進めていたことへの反発や、リグドン自身の精神的な不安定さがあり、信者らは彼に冷ややかでした。

8月6日、ブリガム・ヤングが3日遅れてナウヴーに到着しました。周到な彼は、伝道中の使徒たちを連れて帰って来ていました。この「3日遅れ」というのが絶妙で、光秀の三日天下、秀吉の中国大返しを思わせます。到着の翌日、彼は使徒たちを交えてリグドンと会談を持ちます。ジョセフに召された使徒たちですが、厳しい伝道活動(特に英国伝道)を経て、彼らはヤングのもとで一枚岩でした。ヤングはリグドンの主張が曖昧なまま終始したことで彼の器量を見抜いてしまいます。そして翌日の「マンモス集会(全信者集会)」へと決戦の場を持ち込んだのでした。

「マンモス集会(全信者集会)」とは何だったのか

翌8月8日の「マンモス集会(全信者集会)」はモルモン史にとっては画期的な出来事でしたが、教団が言うように「預言者大管長としてブリガム・ヤングが支持され、新たな時代へ進んでいった」というのは、やはり後付けです。

まず、後継者が誰か、あるいはどちらかという問題ではありませんでした。
シドニー・リグドンが「保護者」として教会を守るという曖昧な展望を語ったのに対して、ヤングは「リグドンを指導者として選ぶか、それともジョセフから直接すべての鍵と権能を授けられた『十二使徒定務会』に依る指導体制を選ぶか?」という問いを会衆に投げかけたのです。

モルモンの歴史では、ここでヤングが自ら預言者であり大管長となるべきだと語ったかのように言いますが、実際にはヤング自身は「預言者である」とも「次の大管長になる」とも言っていません。あくまで「ジョセフの組織した十二使徒という組織で教会を運営する」という訴えでした。これが、ジョセフを失って不安に震えていた信者たちの心に強く刺さったのです。
また、ヤングの姿や声がジョセフ・スミスに変容するという『奇跡』があったとも言われますが、当時の参加者の日記や記録には一切記載がありません。これはユタに到着してから意図的に広められた神話なのです。

この「全信者集会」は、単にシドニー・リグドンを後継者から排除したに過ぎず、預言者抜きの使徒による集団指導体制の流れを主流としたことに過ぎないのです。

エマ・スミスとブリガム・ヤング

結局、シドニー・リグドンは自らに従う信者たちを連れて分派を作ることになります。

もうひとつ大きな勢力がありました。ウィスコンシンで新しく改宗したばかりのジェームズ・ストレンジ(James Strang)という信者は、特に高い地位にはいませんでしたが、ジョセフから届いたとされる「自分を後継者に任命する」という手紙(後に偽造と強く疑われる)を提示し、独自の信者を急速に集めたのです。彼の一派も袂を分かつこととなります。

そして最も有力なグループは、ジョセフ・スミスの家族たちでした。ジョセフが息子のジョセフ・スミス三世を自らの後継者と考えていたということは、ほとんど間違いなかったでしょう。しかし、ジョセフ・スミス三世はこの時まだ11歳でした。母エマ・スミスは後継について「息子が成長するまで待つべきだ」と主張しました。
しかし、ナウヴーの状況は緊迫していました。反モルモンの圧力にも対応していかねばなりませんでした。ここでブリガム・ヤングは交渉力を発揮し、「1846年春には必ず全員でイリノイ州を立ち去る」という約束を反モルモン側から取り付け、退去までの時間を稼ぎました。この極限状態での指揮能力こそが、ヤングの評価を決定的にしました。
しかし、エマ・スミスは徹底的にヤングを警戒していました。ひとつには教団の財産問題でした。ジョセフ・スミスの時代は私的財産と教団の財産の区別が曖昧で、それをヤングが独占するのではないかという懸念がありました。そして、ヤングがジョセフ・スミスの提唱した多妻結婚を推進するのではないかという懸念。もうひとつは世知に長けたヤングに将来、ジョセフ・スミス三世の後継者としての地位を奪われる、あるいは傀儡とされるのではないかという懸念があったのです。
結局、エマがヤングと手を結ぶことはありませんでした。

ここでもう一人のジョセフ・スミスの兄弟、ウィリアム・スミスについて話しておかねばなりません。彼も後継を自認していたようです。使徒であった彼はヤングに接近しましたが、「スミス家の血統こそが指導権を持つべきだ」と主張し、自分を教会の「祝福師(Patriarch)」兼主要指導者として認めるよう要求しました。これはヤングとの対立を生み、1845年に破門されました。その後、彼はストラング派などを転々とします。

まるで大河ドラマの信長死後のような展開です。さしずめ三法師はジョセフ・スミス三世、ヤングは秀吉、織田信孝はウィリアム・スミスといったところでしょうか。

継承ではなく分裂

こうして、ジョセフ・スミスの死後、モルモン教は主に三つの勢力に分裂しました。誰の率いるどこが正統ということはなかったというのが史実なのです。しかし、ヤングは自分たちのみの正当性を補強するべく、次々と手を打っていきます。
まず、彼はエマ・スミスもジョセフ・スミス三世も引き入れることが困難と察すると、ハイラム・スミスの家族を味方につけます。血縁による正当性の強化でした。
次にジョセフ・スミスと仲間割れした三人の見証者に復帰を呼びかけます。生活に困窮していたオリバー・カウドリ、マーティン・ハリスの二人は教団の生活援助のもと復帰します(デビッド・ホイットマーは断固拒否)。ヤングはジョセフ・スミスの後継者としての箔付けができました。
こうして、ヤング派の西進の準備は整ったのです。

ヤング、ユタで預言者大管長となる

時間の流れを整理しましょう。
1844年6月27日にジョセフ・スミスが暗殺されます。
1846年2月から、ヤング一派はナウヴー脱出と西進を開始します(他の派はそれぞれの地へと移りました)。
1847年7月24日にソルトレイク盆地(ユタ)へ到着し、開拓と定住が始まります。
1847年12月にようやくブリガム・ヤングは預言者として大管長に就任します。

反対者のひとりもいないソルトレイク盆地に立って、ようやくヤングは自らを預言者と宣言したのです。用意周到と言うべきでしょう。しかし、モルモン教会が教えるような一本道の継承は一切ないのです。それはつまり、分派した側もモルモンの正当性を持つ、ということを示すことになるでしょう。

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