コラム

コラム 看板だけの「イエス・キリスト」――モルモン教に救い主は要るのか?

先代のモルモン教大管長、ラッセル・M・ネルソンはそうとうなタカ派であった上に、93歳で大管長就任という年寄りの偏屈が重なって、すさまじい「改革」を実施しました。「モルモン」や「LDS」という呼称の禁止です。彼は「イエス・キリストの教会である」ことを徹底的に強調しようとしました。

歴代のキンボールやヒンクレー、モンソンらは積極的にモルモンという言葉を使って「末日聖徒イエス・キリスト教会」をアピールしてきただけに、この驚きの路線転換には目を見張るものがあります。まあ、名前がどうであれモルモン教はモルモン教なので「勝手におやんなさい」なのですが、本当のキリスト教でもない、名前だけキリスト教の団体がイエス・キリストをみだりに名乗るのはよろしくないでしょう。

そもそも、モルモン教に「キリスト(贖い主・救い主)」は要るのか? 教義に「贖い・救い」はあるのか? しっかり調べてゆくと、そこには「要らない」「ない」という結論が浮かび上がってくるのです。

◆ キリストの贖い(あがない)の限定性と「行い」による救い
モルモン教の教義において、イエス・キリストの役割は非常に限定的です。正統キリスト教の「唯一の救い主」という絶対性とは全く異なります。そこには、イエスの役割と人間の役割の明確な「分業」が存在します。

「見よ、人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと、これがわたしの業であり、わたしの栄光である。」(モーセ書 第1章39節)

モルモン教では、この聖句は最も重要な「必修聖句」の一つとされています。しかし、ここに含まれる2つの言葉の定義を紐解くと、彼らの歪んだ自力本願のシステムが見えてきます。

【不死不滅】
父は神であり母は人間マリアであったイエスによって初めて復活をなし得、全人類は不死不滅の肉体を得ることができるようになった。これがモルモン教の教える「イエスの贖い」です。

【永遠の命(昇栄)】
復活した後、最高の天(日の栄えの王国)で神になり、家族と永遠に暮らすという、本当の意味での「救い」。ただし、これを得るには教会の「福音の律法と儀式(戒律)」に従う必要があります。

ここで「福音」という言葉についても説明しておかねばならないでしょう。正統キリスト教では、「福音」とは「喜ばしい知らせ」を指します。つまり、人間の側には何の功績もなく、ただキリストの十字架の贖いと恵みによって、罪から一方的に救われるという、人間からすれば「ホンマかいな」というほどの『喜ばしい知らせ』です。そこに人間の行為はまったく介在しません。

しかし、モルモン教における「福音」は、全く意味が異なります。モルモンにとっての福音とは、神の国(日の栄えの王国)に入るために、新たに与えられた「遵守すべき律法(ルール)や儀式」を意味します。モルモン教徒と会話すると「福音に従う」とか「福音を守る」などという奇妙な言葉が出てくるのはこのためです。本来は誰もがただ受け取るべき「恵みのプレゼント(福音)」が、いつ instantaneous に生涯にわたって縛られる「過酷な労働契約書(新しい戒律)」にすり替わっているわけです。

つまり、モルモン教におけるキリストの贖いとは、人類に復活とその後の永遠の肉体を与えるところまで。あとは「私の模範に従って、新しい戒めを守って頑張って生きてね。そして、死んでから昇栄してね」という、めちゃくちゃなネグレクトで自力本願なのです。

これは例えるなら、病気で苦しんできて、凄く良い病院を見つけて入院し、医師も立派で「手術しましょう」と言われました。手術の日、手術台で執刀医からいきなりメスを渡されて、「ここから先の手術はセルフになっています」と言われるようなものです。

手術のイメージイラスト

救いは自力で!

主役はどこまでも「人間の努力と行い」であり、キリストは単なる脇役にすぎません。というか、万事律法を守ったかどうかという話になるのであれば、キリストはそもそも不要ではありませんか?

モルモン教のイエス is 「イエス・キリスト」と呼ぶには値しません。伝統的なキリスト教のそれとは完全に別物であり、「モルモンのイエス」とか「モルモン・イエス」と呼ぶのがふさわしいでしょう。