コラム・暗殺後日譚

カルテージの銃声が止んだ後に:ジョセフ暗殺に関わった人々列伝

1844年6月27日、イリノイ州カルテージ監獄の2階で起きたジョセフ・スミス暗殺事件。それ派教会が神話化するような美しい殉教劇ではなく、武装した私兵、素人暴徒と狂信者による泥臭い暴力の応酬ぶ過ぎない一連の事件でした。しかし、歴史の本当に生々しく、かつ皮肉なドラマは、カルテージの銃声」が止んだ後に始まります。

予言者をハメた裏切り者、引き金を引いた暴徒、見捨てた政治家、命令を黙殺した将軍、臨場した一般人、そして奇跡的に生き残った使徒たち。彼らの「その後」にも、実に味わい深い歴史の様が広がっているのです。ジョセフ・スミスの暗殺に関わった人々の「その後」を拾ってみましょう。


① 襲撃の暴徒たち —— 正義が霧散の「カルテージの陰謀裁判」

結論から言うと、襲撃に参加して預言者を惨殺した暴徒(暗殺犯)たちは、裁判にかけられたものの「全員が無罪放免」となり、誰一人として法的に裁かれることはありませんでした。この裁判は、アメリカ法制史上に「カルテージの陰謀裁判(Carthage Conspiracy Trial)」として残る、きわめて政治色の強い不条理なものでした。


② 州知事トーマス・フォード —— 両陣営から憎まれ、極貧のどん底へ

ジョセフに安全を保証しながら、結果的に彼を暴徒の前に置き去りにしたトーマス・フォード知事。彼はモルモン教徒からも、そして皮肉なことにモルモンを嫌悪していた一般のイリノイ住民(暴徒側)からも、「双方から激しく憎まれ、見捨てられる」という最悪の末路をたどることになります。

  1. 政治生命の完全な失脚: 暗殺事件の後、イリノイ州の治安はさらに悪化し、モルモン教徒と周辺住民のゲリラ戦(ナブー戦争)に発展しました。フォード知事は双方の調停に完全に失敗し、「無能」の烙印を押されます。1846年に任期を終えて退任したとき、彼には政治的な味方は一人も残っていませんでした。
  2. 極貧のどん底へ: 退任後、彼は弁護士業に戻ろうとしましたが、悪評が祟ってまったく仕事が来ず、あっという間に経済的に破産します。家賃すら払えなくなり、一時は小作農としてその日暮らしをするほど困窮。知事時代の回録『イリノイの歴史』を執筆し、その出版印税に一縷の望みをかけましたが、生きている間にそれが出版されることはありませんでした。
  3. 夫婦揃っての若すぎる病死と、子供たちの悲劇: 1850年、フォードは重度の結核にかかります。傷口に塩を塗るように、妻フランシスもほぼ同時に癌(または結核)を患いました。
    ・1850年11月23日:妻フランシスが38歳の若さで病死。
    ・1850年11月28日:そのわずか5日後、フォード元知事も49歳で病死。
    彼らが亡くなったとき家には1ペニーの金もなく、葬儀費用は地元の知人たちの「寄付」で賄われました。さらに悲惨だったのは遺された5人の子供たちです。財産ゼロで両親を同時に失ったため、子供たちはバラバラに引き取られ、他人の家で過酷な労働(事実上の奉公)を強いられる苦しい人生を送りました。

ユタへ移住したモルモン教徒たちは、このフォード知事のあまりにも哀れで悲惨な末路を見て、「預言者を裏切り、暴徒に売り渡した男に、神の厳格な呪いと裁きが下ったのだ」と、今日まで大々的に語り継ぐことになります。


③ ジョナサン・ダナム —— 救出命令を黙殺した将軍の「怪死」

危機を察知したジョセフから「ナブー軍(ナブー・レギオン)を率いて直ちに出撃し、自分を救出せよ」という絶対的な命令が届きながら、それを意図的に無視(黙殺)したナブー軍の指揮官、ジョナサン・ダナム少将。彼は単なる軍人ではなく、初期モルモン史におけるジョセフの最側近であり、秘密工作員(ダナイト)でもありました。

項目 概要
生没年 1800年頃 〜 1845年7月28日(ジョセフ暗殺のちょうど1年後に死亡)
改宗と初期 1832年頃に改宗。一貫してジョセフ・スミスの忠実な武闘派部下として活動。
主な役職 ・ナブー市警察のチーフ(初代警察署長)
・ナブー軍少将(Major General)
・影の政府「50人評議会」のメンバー

ダナムは非常に体格が良く、ミズーリ戦争時代には不満分子や敵を武力で排除する秘密軍事組織「ダナイト(Danites)」の重要メンバーでした。ナブーに移住してからは警察署長としてジョセフの個人警護(異分子の監視)を直接担う「最も信頼された武闘派の右腕」でした。

なぜ命令を無視したのか?: 軍事的リアリストだったダナムは、もし自分がここで数千人の訓練されたナブー軍を動かして州兵や市民と武力衝突(内戦)を起こせば、連邦政府や州政府によってナブーの町ごと信者(婦女子を含む)が皆殺しにされると確信していました。彼は「預言者個人の命」よりも「ナブーの民全体の生存」を選んだのです。

罪悪感による怪死: ジョセフが暗殺された後、ダナムが命令を握りつぶしていた事実が発覚。ブリガム・ヤングら教会の指導層や狂信的な信者たちから「裏切り者」「お前のせいで預言者は死んだ」と激しい非難にさらされました。 追いつめられた彼は、事件からちょうど1年が経った1845年7月28日、ナブーの近くで遺体となって発見されます。公式の死因は「舞踏病」または精神錯乱に伴う急死とされましたが、歴史家の間では「見殺しにした罪悪感による自殺」、あるいは「ジョセフの復讐を誓う狂信的な信者による暗殺(血の贖罪)」という説が極めて濃厚とされています。


④ ウィリアム・ロー —— 予言者を告発し破門され、医師として天寿を全う

ジョセフ・スミスの一夫多妻制や独裁的な権力行使を激しく批判し、新聞『ナブー・エクポジター』を発行したことで印刷所を破壊されたウィリアム・ロー。結果的にスミス兄弟の暗殺の引き金を引くことになった人物です。

事件直後、モルモン教徒側からは「暴徒を扇動し、予言者をハメた裏切り者(ユダ)」として激しく憎まれ、実際に彼の逮捕状も出されました。しかし、彼自身が直接カルテージ監獄の襲撃に加わったという証拠はなく、起訴されることはありませんでした。ローはジョセフに反発して破門された後、独自の改革派組織「イエス・キリスト真実教会」を立ち上げていましたが、ジョセフの死とモルモン全体が混乱する中でこの組織はすぐに消滅します。

その後、彼は安全のためにイリノイ州を離れてペンシルベニア州などを転々としました。後に医学を学び、医師および裕福な製粉業者・商店主として大成功を収めます。1892年に82歳で亡くなるまで、ブリガム・ヤング率いるユタのモルモン教会とは完全に縁を切ったまま、比較的穏やかで裕福な後半生を全うしました。


⑤ ジョージ・W・スティゴール —— 囚人に優しさを示し、巻き込まれた看守

カルテージ監獄の看守(ハンコック郡の副保安官)であったジョージ・W・スティゴール。自分のマイホーム兼職場が「アメリカ宗教史上最大の暗殺現場」になってしまった気の毒な男です。彼は非モルモン住民(一般市民)でしたが、ジョセフらに対して非常に紳士的で同情的な人物でした。

モルモン教徒が去った後も、スティゴールはカルテージにとどまり続け、郡の保安官などの公職を歴任。地域の治安を支えるベテラン役人として住民から深く信頼されました。そして暗殺事件から約31年後の1875年9月24日、70歳で死去。地元の新聞には彼の死を悼む立派な追悼記事が掲載され、地元の名士として静かにその生涯を閉じました。暴徒の味方をするわけでもなく、改宗するわけでもなく、囚人に最大限の人間的優しさを示し、事件後は淡々と秩序の仕事を全うした、最もまともな人でした。


⑥ ウィラード・リチャーズ —— 「不自然すぎる無傷」が呼んだ黒幕説

そして最後に、あの狭い1室で何十発、何百発という銃弾が飛び交い、部屋が文字通り「蜂の巣」にされる中、衣服に一発の弾痕すら残らず、「かすり傷一つなく完全無傷」で生還した使徒ウィラード・リチャーズです。

これまで教会内では、ジョセフから事前に「君には一本の矢も当たらない」と言われていた予言の成就(神の奇跡)として語られてきました。しかし、ドアの隙間から突き出される暴徒の銃身をステッキ(杖)で叩き落として最前線で激しく応戦し、4発被弾して重傷を負ったのは、もう一人の使徒ジョン・テイラー(のちの第3代大管長)でした。リチャーズはテイラーが倒れた最終局面にその杖を引き継いで抵抗したものの、基本的には部屋の隅、ドアの陰に隠れていました。

歴史の皮肉なところは、この「奇跡の無傷生還」があまりにも不自然すぎたため、外部の批評家やのちの反対派から「リチャーズは事前に暴徒側と裏取引していた内通者(スパイ)だったのではないか?」という強烈な陰謀論を囁かれる原因になったことです。さらに、のちに教団の最高権力を握るブリガム・ヤング(当時はボストンに滞在しており物理的関与は100%不可能)の右腕(大管長会顧問)として権力の中枢に座ったため、反モルモン側からは「ブリガムとリチャーズが前管長をハメた」という、さながら本能寺の変における秀吉黒幕説のようなデマ・俗説がまことしやかに流布することになりました。

事実は、ナブーから復讐の軍が来るというデマで暴徒たちが大パニックを起こし、リチャーズを単に見落としてクモの子を散らすように逃げ去ったという、現場の混沌が生んだ偶然に過ぎません。しかし、この生き残ったという事実によって、彼はジョセフの遺体を回収してナブーに悲報を伝える大役を担い、新生モルモン教会の最高幹部へと上り詰める道を得たのです。


まとめ: 暴徒たちはジョセフを殺せば教団は自滅して終わると思っていましたが、実際はその真逆でした。あのまま一夫多妻の醜聞や、独自の私兵を動かして反対派新聞社を打ち壊した政治的暴走の罪で、法的にじわじわ裁判で追い詰められていれば、教団は社会的に自滅するか、小さな地方カルトで終わっていたはずです。

暴徒たちの放った文字取りの凶弾、そしてフォード知事の無能な日和見こそが、ジョセフのい罪を血で覆い隠し、彼を永遠の「悲劇の殉教者」へと昇華させてしまいました。そして、ブリガム・ヤングや、奇跡的に生き残ったテイラーとリチャーズらがその遺産を引き継いだことで、モルモン教をユタの地で世界宗教へと大発展させる最大の皮肉な原動力となってしまったのです。カルテージの監獄の銃声は、関わった人々の人生を翻弄しながら、歴史の不条理を語っているのです。